宇都宮・興禅寺 浄瑠璃坂の仇討 [旅行、趣味]
JR宇都宮駅から北西の方向、徒歩約10分くらいのところに興禅寺という臨済宗の寺があります。
臨済宗妙心寺派 神護山興禅寺 (宇都宮における最初の禅林 1314年開基)
神護山の意味は、宇都宮大明神(神仏混合説によって仏教側から呼ぶ神祇の称)のお告げにより寺 の場所を決めたことによる。
本尊 木造釈迦如来坐像
開基は、宇都宮第8代城主 宇都宮貞綱公(興禅寺殿天基蓮昇大居士)
開山は、黒羽雲厳寺で修業した真空妙応禅師です。
開基 宇都宮貞綱公の像
貞綱公は、16歳で弘安の役に初陣、後世、「宇都宮「弘安式条」と称される宇都宮一族の定め書の制定など、武将として一族の総大将かつ下野数十万の領民を支配する宇都宮城主であり、一方で、和歌を嗜み、又、仏教にひかれ、母の十三回忌に鉄塔婆を建て供養、、あるいは宇都宮城下町一帯の時の鐘として親しまれた梵鐘を献納するなど動と静の両面をあわせもった武将であった。墓は、興禅寺境内にあります。
開山供養塔
門前に、 「史跡」 の表記があります。
この中に、「江戸期三大仇討 浄瑠璃坂の仇討 家老奥平内蔵充正輝」とある。
江戸の三大仇討とは、伊賀上野鍵屋の辻の決闘、浄瑠璃坂の仇討、赤穂浪士の仇討をいいます。
このうち、浄瑠璃坂の仇討は、ここ興禅寺で起こった出来事が発端となったものです。30年後に起こった赤穂浪士の仇討の手本となったといわれます。
前藩主の法要の時、些細な言葉のやりとりをきっかけとして奥平内蔵充が奥平隼人相手に刃傷に及び、内蔵充は切腹しますが、相手の隼人には何のお構いもなしという江戸表の片手落ちの裁定に、内蔵充の嫡子源八の下に40名程が脱藩します。城では藩士の脱藩に驚き、二分された藩論を鎮静化するためにも隼人を追放せざるを得なくなったが隼人には警護をつけて送りだしたそうです。源八たちはこの後4年の間仇討のためだけに隼人側の動静を常に探り、とうとう江戸に潜入していた隼人を牛込・浄瑠璃坂でうちとったということです。
なお、源八他2名は井伊掃部頭直澄侯の桜田門外上屋敷へ自首したところ、藩主、直澄は義烈の士が自分の邸に名乗ってきたことを部門のほまれとして喜び、6年間の大島流人の生活をしたが直澄の請願により赦免され、同時に3人はその家来2人を含めて井伊家に召抱えられ、他にも討入に活躍した同志で松浦肥前守に召し抱えられる者など幸福な生活を送る身となったそうです。
郷土の歴史家、徳田浩惇氏の「興禅寺物語」には興禅寺古文書や事実記録等資料編とともに奥平家の重臣の権力闘争から発した浄瑠璃坂の仇討の物語等おもしろく読むことができます。
こんばんは
ご訪問いただきありがとうございます
これからもよろしくお願いします
by はくちゃん (2010-08-25 22:25)
ご訪問いただき、ありがとうございました。
by kazutoku (2010-08-25 23:01)
興禅寺の事や浄瑠璃坂の仇討は知りませんでした。
地図で興禅寺は確認したので行ってみます。
by 旅爺さん (2010-08-26 09:49)
私も何も知らぬままにいました。案外大切なことを知らないものです。
健康ランド南大門の隣あたりですね。桜のきれいなお寺かな。
by 春分 (2010-08-26 18:09)
訪問ありがとうございます。
by takechan (2010-08-26 22:16)
一気に読ませていただきました。先生ってすごい才能がおありなんですね。びっくりしました。明日お寺でお会いできるのが楽しみです。
by はんだ (2017-02-17 17:19)