南禅寺 [神社仏閣]
室生寺 [神社仏閣]
高田山専修寺 一光三尊仏御開扉 [神社仏閣]
栃木県真岡市(旧二宮町)の高田山専修寺(せんじゅじ)に行きました。
目的は、3日間だけ開扉される秘仏の一光三尊仏の拝観。
真宗の祖、親鸞は42歳頃から約20年間関東各地を行脚して専修念仏を広めました。高田に来たのは53歳の時で、ここに長野の善光寺から一光三尊仏を迎え本尊としたのが専修寺です。
↓ 総門の前の大ケヤキ。樹齢800年親鸞上人お手植えといわれる、県の天然記念物
↓ 総門。通常は閉じられている。
専修寺の境内は国指定史跡になっているが親鸞上人建立当時のものは総門だけ。
↓ 山門と奥の建物は本堂である如来堂。 総門、山門、本堂が一直線上にある。
↓ 如来堂’本堂) 親鸞が嘉禄2年に自ら建立したとされている。現在のお堂は1744年再建で屋根は銅板棟に菊の御紋がつけられている。
↓ 御影堂 親鸞上人像を安置。今回はこちらで一光三尊仏が公開された。
↓ 御影堂からみた鐘楼堂
この左手の方には5間四方寄棟造りの涅槃堂があり、木造金箔塗り3mの大きな涅槃像がある。
専修寺の東方2㌔にある、草庵跡にも寄ってきました。
↓ 専修寺の建設中に親鸞上人が仮住居としていた三谷(みや)草庵。
林に囲まれてすがすがしい佇まいでした。
尾鑿山賀蘇山神社 [神社仏閣]
長閑な里の風景をながめながらバスが賀蘇山神社に着きました。
尾鑿山賀蘇山神社(おざくさんがそやまじんじゃ)は「日本三大実録」の878年9月16日の條に「授下野国賀蘇山神社従五位下」と記載された社。五穀豊穣、産業発展、医薬長寿の守護神として信仰されてきた。
江戸時代後期になると「尾鑿山講」と呼ばれる代参講が盛んになり、関東一円より多くの参詣者を迎えたそうで、 御祭神は天之御中主神・月読命・武甕槌命です。
神楽殿
境内には大正6年まで目通り周囲15m、樹高70mに及ぶ樹齢1800年と言われた巨大な杉があった、その杉のあったところへ向かいます。
大杉切り株。神代杉。明治44年の落雷と大正6年に発生した近隣火災の類焼により枯損したので伐採、現在は地上約2.5mを残すのみ。枝葉が他の木々の笠のように見え、最下層の枝は直径が1mをこえていたとのことです。 ↓
別の場所にある遥拝殿にやってきました。 ↓
この奥、険しい山を上ること3㎞、尾鑿山直下に岩屋があり、そこに祀られている御本社を拝むための建物です(大人の健脚でも90分かかり、また女性の入山が禁止されていた時代もあったそう)。
三間四方の宝形造り、総ケヤキ造りで精巧荘厳な彫刻が四囲にある。60年の工期を要して元禄14年(1701)に完成した。日光東照宮を修築した棟梁、彫工達によって寛永18年頃から着手、中には父子二代に渡り造営に当たった者もいたそうで、彫刻のうち最多は龍で40頭、東西と北面を埋めている。四隅を守るのは獅子と像。
これまで「おざくさん」は「石裂山」と思っていましたが、山の頂上の向こう側を石裂山といい、こちら側は尾鑿山というそうで、入粟野の地名には尾鑿しかないのだと初めてしりました。
施餓鬼会に参列して [神社仏閣]
宇都宮市今泉町の臨済宗妙心寺派寺院~河北禅林 神護山興禅寺での施餓鬼会に参列しました。
法要は2時から。実家の方で参列する予定ですが、御住職のお話も聴きたいと思い出かけてみました。少し早く着いたので、普段は近くで拝観出来ないから御本尊の直ぐ前にいってお詣りして、位牌が並べ置かれた室内に入って家の位牌にも対面してから静かに待ちました。
興禅寺の御本尊は、木造釈迦如来座像。門前の案内書に~像高は約90㎝、木造寄木造で玉眼。目をやや細め、わずかに首を前に傾けている。南北朝時代の作であるが彫りが深く鋭い等鎌倉彫刻のよさを残している。仏像の底面に北朝の年号「文和二年(1353)」と作者名「院吉、院広、院遵」が刻まれている。~とあります。
1時20分から御住職の法話。施餓鬼会の意味を聞いて、それから、毎日の生活で良いことも悪いことも順番に巡ってくるものであるがあまり良いとか悪いとかこだわらないで、あの世に帰っていく時まで一生懸命に生きましょう。何かあったときはご先祖様が、あるいはおてんとう様が、ののさま~仏様~が見てくれていると思えば自ずから処し方がわかるのではというようなお話だったか。法要は1時間程で終わり、卒塔婆とお寺からのお供物をいただいてこれからお墓にいく兄達と別れ帰って来ました。実家の宗旨は臨済宗なのに最近巡礼会に参加して高野山や多気山等真言宗に浮気しているようでどちらにも申し訳が立たないような気持ちがあったのですが、久しぶりに家のお寺での法要に参列しほっとしました。
興禅寺は、宇都宮8代城主貞綱が宇都宮に初めて禅寺を開いたことから法名を興禅寺殿といいこれを寺名としている。9代公綱は楠木正成との戦い等で坂東武者の名をたかからしめ、その子の氏綱は戦の中で宇都宮氏を守ろうと戦ったが病で亡くなった。豊臣秀吉により宇都宮氏がとりつぶされた時、興禅寺も宇都宮ゆかりということで取り壊され、小さなお堂が一つ残っていただけであったのが、徳川の時代になり奥平氏の助力で復興し、後に江戸浄瑠璃坂の仇討ちの発端となった事件が起きた場所という歴史ももっているお寺です。