富岡製糸場を見にいく 日本の工業化は製糸から始まった [旅行]
富岡製糸場へは上信越自動車道「富岡IC」から約10分程で着きます。山の中のイメージを持っていたのですが、思いのほか賑やかな街の中でした。
富岡製糸場は、国史跡・重要文化財。
明治政府がとった殖産興業政策、特に貿易による外貨獲得の道として「生糸の輸出振興」が打ち出されたことで、明治5年に設立された日本で最初の官営模範工場。
明治5年10月操業開始、全国から集まった工女らの手で器械製糸技術が各地へ伝播され、富岡製糸場を模範として各地に製糸場が建設された。日本の工業化は製糸から始まった。
明治26年民間へ払い下げ後も、一貫して製糸工場として使用されてきた(昭和62年に操業停止)。
正門を入ると、東繭倉庫という建物で、現在、富岡製糸場の歴史等、資料の展示室となっている。
建物の設計はフランス人技師、実際の建築は日本人大工が当たり、資材は主に県内から、特に大量のレンガは、政府が雇用したポール・ブリュナから手真似で作り方を教わった日本の瓦職人が富岡の隣の福島町に窯を築き、瓦とともに焼き上げたとのことです。
東西の繭倉庫2棟あり、長さ100mを超す大規模なレンガ作りの美しい建物です。 良く見ると、屋根の雨樋が波打つように見える。雨水を下の防火用水の桶に貯めるようになっていて桶のある所の雨樋が少し下がって取り付けられている。
こちらは、乾燥場
ここに、置いてあったもの。「目標」・機械の制度を高めよう・良い糸造りに徹しよう・・・・和の精神に徹しようとか書いてある。
その隣に梅の古木があった。
広い庭から見た高い煙突。
この後ろの方に、繰糸場(繭から生糸を繰る作業)がある。繰糸場入口。
トラス工法の建物。建物内部に柱がない広い空間。
現在は事務所になっている「検査人館」。生糸や機械の検査を担当したフランス人男性技術者の住居として建てられた。屋根瓦が美しい。
隣の「女工館」日本人工女に器械による糸繰り技術を教えるフランス人女性教師の住居として建設。
診療所。隣に病棟もあります。
指導者であるフランス人ポール・ブリュナが家族と暮らしていた住居の一部です。
これらはみな明治5年~6年に建築されたもの。敷地面積は53,738㎡(16,255坪)。
官営工場として創業され、民間企業へ払い下げの後も操業停止まで115年間休むことなく製糸工場として活動し続けてきた。世界の仲間入りを目指した近代日本の象徴ともいえる建物。創業当初のままで残されているという建物はどれも美しい姿をしています。
古い建物はいいですね。
でも、女工と製糸工場と言うと「ああ野麦峠」を思い出して苦しい感じです。
鶴田駅の近くにも養蚕を記念する碑が立っています。「皇国の産業に貢献
できる喜びと讃えたい」という主旨の文が彫ってあります。時代ということか
その先に私達の暮らしがあるわけですが、振り返る人はまったくいません。
by 春分 (2011-03-09 22:32)