第52番 太山寺 (愛媛県) [四国遍路30年春]
四国霊場第52番龍雲山太山寺の開基は豊後の国の真野長者です。商いのため船で大阪に向かう時暴風にあい観音様に祈って救われたことに感謝し豊後の工匠を集めて本堂を建てる木組を整え船積みし、浜に到着すると一夜にして御堂を建ちあげたことから一夜建立の御堂と伝わっています。 ご本尊は十一面観音菩薩です。
本堂は国宝に指定され、桁行7間、梁間9間の入母屋造り本瓦葺の堂々とした建物です。1305年松山城主河野家が寄進しました。四国霊場中二番目に古いものです。
この国宝の本堂前で記念の集合写真を撮りました。
本堂前の摩尼車に興味津々の会員 ↑
大師堂 ↓
鐘楼堂 ↓ 1655年の再建
山門 ↓ 1683年再建
第51番 石手寺(愛媛県) [四国遍路30年春]
四国霊場第51番札所熊野山石手寺の参道は、回廊のようで両側に名物の焼きもちや砥部焼等売る店が並び仲見世になっています。
参道を通り抜けると広い境内が目の前に広がります。
階段を上がって本堂の前に出ますが、観光客が多いので邪魔にならないよう右手横にまわって参拝。少し離れた大師堂への参拝を終わって三重塔前にでました。重厚な感じがします。
石手寺の名称の由来は、遍路の元祖とされる衛門三郎に関わりがあります。行いを悔やんだ衛門三郎が弘法大師の後を追い逆打ちをしてやっと大師に会うことが出来たのが第12番焼山寺の近くで、そこが彼の終焉の地とされています(杖杉庵)。亡くなる時に大師が何か望みはあるかと尋ねたところ、三郎は生れかわって人の役に建つことをしたいと言い、弘法大師は小石に「衛門三郎再来」と書いて左手に握らせたと言います。何年か後に、領主河野氏のところに男の子が生れますが左手を握ったまま開かない。親が寺に参って祈ったところ開いた左手に「衛門三郎再来」と書かれた小石を握っていたといいます。その寺は安養寺といい、現在の石手寺といわれるようになりました。ちなみにその男の子は成人して領主となり善政を布いたということです。
ここでの記念にお線香を買ってきました。
第50番 繁多寺(愛媛県) [四国遍路30年春]
四国霊場第50番札所東山繁多寺の御本尊は薬師如来。天平勝宝年間に行基菩薩により開創と伝えられている。
境内の藤 ↓
緑が美しい
京都の泉湧寺との縁が深く、山門の瓦にも菊の紋が使われている。
地元では「畑寺・はたでら」と呼ばれ、門前の信号機にも畑寺入口となっている。
第49番浄土寺(愛媛県) [四国遍路30年春]
四国霊場第49番西林山浄土寺のご本尊は釈迦如来。縁起ではこ孝謙天皇の勅願寺として天平勝宝年間に恵命上人により、行基菩薩が彫像した釈迦如来を本尊として開かれたとあります。
空也上人が平安中期浄土寺に滞在し村人達の教化、布教をして親しまれたことから国指定重文の空也上人像ががあります。 本堂前でその写真のみ見ました。京都の六波羅密寺にあるのと同じように、 口から六体の阿弥陀小化仏を吐いています。
門の前に御衣黄桜(緑の中に黄色の花)が咲いていました。
↑ 住宅街の細い路地を入った所にあります。