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京都 西山三鈷寺  [神社仏閣]

平成13年1月14日(月)成人の日。宇都宮市でも朝10時頃から雪が降り続いています。細かい雪が横に流されるように 降っていて幹線道路以外は真白になっています。皆さまもお気を付け下さい。

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三鈷寺は、京都市西京区大原野にある西山浄土宗のお寺です。

三鈷寺は善峯寺(西国33札所20番)の奥にあります。もともと善峯寺の開祖源算上人の隠居所であったところがはじまりです。

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昨年12月に京都旅行の時、宇都宮蓮生(頼綱)の墓所があるのでぜひとすすめられ行ってきました。

宇都宮頼綱(実信房蓮生)とは、第5代宇都宮城主で、鎌倉時代初期に関東の武士として生き、謀反のの疑いをかけられると、潔く権力の地位を去り、出家剃髪して「蓮生(れんしょう)」と号し、法然上人や、法然の高弟で西山浄土宗の祖である西山上人證空の下で仏道修行する僧として、また歌人としても生きられた人です。

頼綱が出家したとき一族60余人も出家したそうで、悩める蓮生は、やはり出家していた法力房蓮生(れんせい)(熊谷次郎直実)の勧めによって法然上人をたずね、念仏の教えに帰依しました。

法然上人がなくなられた後は誰に教えを請えばよいかと蓮生は法然上人ご本人に訊ねたそうです。すると法然は弟子は多いけれども正しく真実の義を授けたのは善慧房(西山上人)であるというので蓮生上人は西山上人のところに行き、深く帰依されるここととなったとのことです。 

法然の入滅後、西山上人證空は天台座主であった慈円の譲りを受けて西山善峯寺北尾往生院(三鈷寺)に入りました。

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三鈷寺は応仁の乱により荒廃したということで現在は本堂と西山上人の御廟所(華臺廟)が残るだけです。

蓮生が開基となる華臺廟。 この建物の中に西山上人のお墓である五輪塔とそれにぴったり寄り添うように半分位の大きさの蓮生上人の五輪塔が祀られていました。  (心をこめて合掌)

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また蓮生は若い頃から和歌に親しみ、藤原定家との交流がありました。娘を定家の息子為家に嫁がせていて、文暦2年(1235)定家を小倉山山荘に招き連歌会を開いたとき、定家に天智天皇から家隆・雅経に及ぶ古今の歌人がうたわれた歌の中から一首を選定し山荘の障子に書いてもらいました。これが小倉百人一首の起こりといわれています。

当時、宇都宮は、京都、鎌倉と並ぶ三歌壇としての有力な地位も占めていたそうで、このことから宇都宮市では毎年百人一首のイベント等開催されています。(下は、宇都宮市 英巌寺(開基は頼綱)にある 実信房蓮生法師供養塔です)

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さて、三鈷寺の境内からの眺めはすばらしいものでした。江戸時代の「都名所図絵」には二大仏七城俯瞰の地」とうたわれたそうで、北山から東山、伏見の方までよく見えます。お盆の送り火も同時に見ることができる(4か所のみ)そうです。

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暖められた客殿でお茶をいただきました。

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栃木県から来たというのでご住職さんから湯西川を知っているかきかれ、湯西川といえば平家の落人村との話が出るのですが、実は頼綱さんと湯西川は縁があるのだときいて驚きました。頼綱の母は平長盛の娘で宮廷に仕えた女房、頼綱の祖父である朝綱が後白河院の北面の武士として仕えていた際に、息子である業綱の室としたということです。そのような縁があったことから平家の落人が頼綱を頼ってきたが鎌倉の御家人である頼綱は宇都宮にとどめておくことは出来ないので援助して湯西川に落ちのびさせたのだそうです。湯西川の老舗旅館にホテル伴久とあるのですが、伴を分解すると平人です。

(湯西川は近年新しいダム湖が出来てトンネルをいくつもいくつも越えないといけません。aatyanさんやはなちゃん104Mさんが詳しいです。)

下は三鈷寺境内の片隅。南天がきれいだったので。

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善峯寺境内から上がってくるとここに出ます。

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もともと御堂のあった処は現在の場所よりもっと山の上の方。「勅浄土西山派根本山」との碑が建立されています。

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三鈷寺へは善峯寺をこえなければいけません。

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善峯寺への道の途中に入口の案内がありますが登山道のようであるそうですから善峯寺境内をこえて行くのが一番良いようです。徒歩20分位。

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三鈷寺でお聞きした話を思い出しながら書きましたが、本堂前に置かれた案内文をのせておきます。

三鈷寺    西山宗の総本山であり、四宗(天台、真言、律、浄土)兼学である。平安中期の、承保元年(1074)、叡山の源算上人が草案を建て、往生院と号したのが当寺の起こりである。二祖観性法橋を経て、三祖慈鎮(慈円)から西山上人証空(善慧房)に譲られた。証空は念仏の道場として発展させ、浄土宗西山派をこの山に創始し、背後の山の頂上髢嶽(かもしがたけ)の三峰が仏具の三鈷ににているところから寺名を三鈷寺と改め、勅願寺に列せられた。

 証空は宝治元年(1247)入滅。華台廟はその墓所で、証空に深く帰依した蓮生(宇都宮頼綱)が多宝塔を建てた。 蓮生には「抱止阿弥陀如来」の縁起も伝えられている。

中世を通じて念仏の道場として証空の法流を伝え、多くの寺領荘園を持ち寺運は栄えたが、応仁の乱の兵火により多宝塔以下山内は荒廃した。江戸時代には復興の努力がなされたが、旧観には復さなかった。

  52代台龍上人が現在の寺観を整備し、昭和26年(1951)西山派として独立した。建物としては華台廟、本堂を残すのみであるが、古い由緒を物語る寺宝は多い。また、客殿からの眺めはすこぶる良く、京都の市街地まで見渡せ、中でも東山に上る明月の眺めは関西随一と称される。  京都市」


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柴又の帝釈天 [神社仏閣]

1月3日柴又の帝釈天題経寺にいきました。日蓮宗のお寺です。

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二天門

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境内全景

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手水舎の前で順番待ち。この松は「瑞竜の松」という。

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手水鉢。     この横に水掛け菩薩像もありました。

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帝釈堂

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本堂  こちらから上って参拝。

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参道の商店街も大勢の人。駅前まで寅さんに会いにいってみました。

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「よっ」と言いながら振り返っているような温さがあります。

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参道は一方通行に規制されて団子もおせんべいも買わずに帰ってきたのが少し心残りではありました。

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浄瑠璃坂仇討の準備の地・法幢寺(茂木町) [神社仏閣]

宇都宮市今泉3丁目に興禅寺というお寺があります。臨済宗妙心寺派の寺院です。開基は宇都宮貞綱(宇都宮第8代城主)です。

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山門

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案内に「江戸期三代仇討浄瑠璃坂の仇討家老奥平内蔵允正輝」とあります。赤穂浪士討入の手本といわれる江戸・浄瑠璃坂での仇討の発端がここにありました。

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1668年(寛文8年)興禅寺で営まれた前藩主の法要の際に、同藩家老奥平内蔵介と奥平隼人が口論から刃傷に及び深手を負った内蔵介が二ヶ月後に憤死、一方の隼人については当初切腹を命じることなく両成敗を欠いた裁定だった。内蔵助の子源八(当時11歳)は浪人し、父の仇として奥平隼人を討つべく同じく脱藩した42名と共に茂木町深沢に隠れすみ、奥平隼人の動向を探り続けること4ヵ年、1672年(寛文12年)に江戸牛込の浄瑠璃坂下で隼人を討ち父の無念を晴らすことができた。

先日、茂木の里山ウォーキングに参加した帰り、源八らが隠れ住んだ茂木町深沢を訪ねてみました。道の駅もてぎから笠間方面へ向かいおよそ10㎞、深沢の交差点からは約3㎞ほどのところ右側に案内標識がたっています。

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ここを左に入って200m位でT字路左折するとすぐです。

法幢寺 山門と石段

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本堂 御本尊は千手観音。御本尊前には源八所縁の子孫の方の依頼によるとお位牌がありました。

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境内に、仇討のいきさつとともに内蔵介300回忌にあたり深沢の人々の人情に感謝して建立した(昭和54年)旨の「武士の情と歴史」の碑文があります。062.JPG

境内から眺めたところ。お寺は高台にあってまわりは長閑な田園地帯です。源八一族40余名は法幢寺や村名主の有力農家数軒に分散して住んでいたようで仇の情報を探るため各地と行き来する人の姿が目立たないわけはなく、4年間を過ごすことができたのは深沢村や法幢寺附近の人々の親切があったからと想像できます。

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法幢寺が仇討準備の地とされたのは旧参道の竹藪の中からある石碑が発見されたからです。現在の参道石段より100m位入ったところにその石碑がありました。

参道わきの案内

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石碑です。

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自然石の表面を平らに削った高さ1m位で、中央に「大小旦那奉加喜捨等之交母石階人數」とあり、その左右上部に貞享四丁卯、卯月吉辰、右側に「奥平権平、同源八、夏目外記」、その下部に「大谷石工、大野源左ヱ門、加藤次右ヱ門、篠原七ヱ門」とあります。左側には「名主上野半右ヱ門、桜井三太夫、飯村権之助」と「住持翠岩」と記されています。

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このときの源八は30歳、夏目外記、権平は40歳。

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本懐を遂げた後、中心人物だった源八ら3名は大島に流罪となるが、6年後許されて戻ると彦根藩井伊掃部頭に召抱えられ、幸福な生活を送る身となった。15年後に源八らは彦根から深沢を訪ねて村人に謝礼をするとともに村の寺である法幢寺に参道の石段を寄進し、その記念にこの石碑を建立したもの。

なお、仇討に参加した同志は活躍した人も若党、仲間で助勢した人もそれぞれ各藩に召し抱えられたとのことです。赤穂浪士の討入は、浄瑠璃坂の仇討の30数年後のことです。

金剛山法幢寺の入口

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法幢寺本堂に勢至観音菩薩がまつられていました。観音様は鰻にのってやってきたのでこの辺りでは鰻は食べないそうです。


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鷲子山上神社 [神社仏閣]

栃木県と茨城県の県境にまたがって鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)があります。日本一の大フクロウの像がありパワースポットとして人気だそうです。

ナニコレ珍百景にも取り上げられそうな。上り口となっているのは茨城県側でバス1台が通れる巾の道です。出口は栃木県側で乗用車1台が通れるだけの巾。

境内に入ると鳥居前に、ここが県境とありました。

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鳥居をくぐって手水舎へ

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本殿までの石段は96段。上がるのが無理な人は手水舎の横のフクロウに水を掛け祈ってもよし。

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フクロウの石段を上って本殿へと。96段×2で(フクロウ)。

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狛犬

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随神門

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本殿

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茨城県指定

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栃木県指定   

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石段の上から境内をみたところ

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社務所にはここならではのお守りがあります。

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社務所を挟んで反対側。この石段(30段くらい)を上ると日本一の大フクロウの像がたっています。

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金色に輝いている大フクロウ

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日本の自然100選にも選ばれているところです。

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分福茶釜 茂林寺  (群馬県館林市) [神社仏閣]

群馬県館林市にある 分福茶釜のお話で有名な 青竜山茂林寺 は曹洞宗のお寺です。御本尊は釈迦牟尼仏。

門前に、福陶庵という御土産やさんがあって、大小たくさんの狸の置物が並んでいました。帰りによることとして、

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黒門をくぐると

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茶釜とたぬきの像がずらっとならんでいます。

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本堂です。

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寺宝の分福茶釜。「応永23年に開山の大林正通禅師に随い伊香保から来て代々の住職につかえた守鶴和尚は、7世月舟和尚の代に千人法会があり喫茶の用に供する湯釜がなくて寺で困っていたとき、一夜のうちにどこからか一つの茶釜を持ってきて、茶を煎じたところ昼夜汲めどもつきることがなかった。和尚は自らこの茶釜を紫金銅分福茶釜と称して、その後161年間当山にいたが天正15年2月28日飄然と寺を去って行方がわからなくなった。後世守鶴和尚は狸の化身だと伝えるものがあり、お伽噺となったものでしょう」~拝観券より。

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天然記念物のラカンマキ 

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元禄3年建立の聖観音とサワラの大木

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門前の御土産さんの 福陶庵で、分福茶釜の由来と「たぬき説法・茂林寺狸八訓」というおもしろいチラシをもらいました。館林うどんのおいしいお店も教えてもらって食べてきました。  2012.02.05(日)


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